ニューロンとシナプスの動作を再現ースピントロニクスー(簡易版)
1.ニューロンとシナプス
現在普及している人工知能は、集積回路を用いたハードウェアによる脳の情報処理の様式を真似た、いわゆるディープニューラルネットワークを使ったものとなっています。
しかし、実際の脳では普及している集積回路とは全く別の構造により情報処理が行われています。脳に限らず、体の中のあらゆる情報のやり取りを担っているのが、ニューロンとシナプスです。
ニューロンもシナプスも細胞の名前です。ニューロンの端にシナプスがあります。
外からの刺激を受けて電気信号がニューロンの中を走り、シナプスまで到達すると、シナプスから神経伝達物質が放出され、隣りのニューロンの端にあるシナプスが神経伝達物質を受け取り、ニューロンに電気信号を走らせる、という繰り返しで体中に電気信号として情報が伝わります。
2.イオンチャネルとイオンポンプ
ニューロンの中を電気信号が走る仕組みや、シナプスから神経伝達物質が放出される仕組みはどうなっているでしょうか。
電気は電位差(電気的なエネルギーの差。エネルギーが高い方から低い方へ電気は流れて行く。)があると流れます。その電位差を作り出す仕組みが細胞にはあります。それがイオンチャネルとイオンポンプです。細胞膜に存在する機構で、体内にあるナトリウムイオンやカリウムイオンがこれらにより細胞の内外を行き来することができ、これらイオンの濃度差により電位差が生まれます。
細胞内の方がカリウムイオンの濃度が高く、カリウムイオンチャネルやイオンポンプを通ってカリウムイオンが外に出て行こうとする力と釣り合うだけの、カリウムイオンが外から内へ流れるだけの電位差がある状態が平常状態であり、細胞内はマイナスの電位となっています。
ニューロン細胞には、隣りのニューロンからの信号が、ある時間内であるラインを超えると開くナトリウムイオンチャネルがあります。普段は細胞外の方がナトリウムイオンの濃度が高いため、ナトリウムイオンチャネルが開くと細胞外から細胞内にナトリウムイオンが流れこみ、ナトリウムイオンの濃度が細胞内で高まります。そのナトリウムイオンが流れこもうとする力と釣り合うように、細胞内の電位がプラスになります。これが活動電位と呼ばれ、ニューロンが興奮した状態です。
しかし、このナトリウムイオンチャネルが開くのは1ミリ秒程度で、すぐにカリウムイオンチャネルが開き、カリウムイオンが細胞外へ流れて行き、細胞内の電位がまたマイナスに戻って行きます。
このように、ニューロン細胞内の電位がある閾値を超えるとプラスに転じ、すぐにマイナスになり、ということを繰り返すことで、ニューロン内を信号が伝わって行く、という仕組みになっています。
3.シナプスの結合強度
シナプスが隣りのニューロンにどれだけの効率で信号を伝達するか、を示す、結合強度というものがあります。このシナプスの結合強度は、そのシナプスがついているニューロンが興奮状態になってから、隣りニューロンが興奮状態になるまでの時間差に依存します。要するに、隣りのニューロンがほぼ同じタイミングで興奮状態になる場合は、よりそのニューロンとの結合を強め、逆に興奮のタイミングがずれていた場合は、結合を弱める、という特性があります。
4.スピントロニクス素子
前置きが長くなりましたが、今回の成果は、前述のようなニューロンやシナプスの電位や結合強度の応答を再現することができるスピントロニクス素子を開発できた、というものです。
現在の人工知能では、集積回路を用いているので、何か応答をするのに、応答のタイミングでの指示信号が必要になります。一方で、ニューロンやシナプスでは、ある閾値を超えるかどうか、というところや、隣りのニューロンにどれだけ効率よく信号を伝えるか、という部分について、時間に応じた応答をしています。このような時間に応じた反応を再現したスピントロニクス素子を用いれば、記憶や学習などの時間に応じた反応をより効率的に行えることが期待されます。
では、このスピントロニクス素子とは何でしょうか。
電子の電荷に注目したものをエレクトロニクスというのに対し、電子のスピンに注目したものがスピントロニクスです。電子は、磁気モーメントを持っており、電子が自転=スピンしていることで磁気が生まれている、というイメージからくる「スピン」という言葉です。電子が運ぶ電荷ではなく、電子が運ぶスピン(磁気)を操作するのがスピントロニクスです。
今回の成果となっているスピントロニクス素子では、電気抵抗を多様に制御できるようになっており、これが、ニューロンやシナプスの動作を再現できた大きな理由となっています。
スピントロニクスについてのより詳しい解説は詳細版で。
5.今後の期待
ニューロンとシナプスの動作を再現できる素子ができ、それを大量に組み合わせた場合に、脳は再現されるのでしょうか。
人間の意識など、脳の機能を再現するのには何が必要か、という点で、二つの立場があります。
一つは、その構成要素であるニューロンやシナプスの機能を再現することで、脳を再現できる、という立場です。意識も含め、脳内のニューロンやシナプスなどを構成するタンパク質は、同じ機能を持った素子で代替可能であるという考え方で、この立場をとれば、今回の成果は、人工脳を作り上げることができるようになる第一歩と言えます。
一方で、機能を再現するだけではダメで、タンパク質中の電子の量子的な振る舞いとかがあってこその脳だ、という立場もあります。この場合、タンパク質を素子で代替することはできず、タンパク質を直接操作し、組み立てて行く、という分子回路、分子コンピュータのようなものの実現がないと、人工脳の完成は不可能ということになります。
さて、私たちの脳は、別の素材で代替可能なのでしょうか。