top of page
rice

確率と統計 個人と集団③

更新日:2023年12月3日

前の記事はこちら


3. 個人と集団の分断

長々と書いてきました。

ようやく本題です。

統計の話でも出てきましたが、国のような集団の政策判断において、統計を見ることは非常に重要です。

統計を見る、ということは、個々の事例ではなく、集団全体を見ることになります。

その集団の中には、必ず悪い事例も含まれてしまいますが、その悪い事例をゼロにすることよりも、集団の平均値をあげる(改善させる)ことを集団視点では目指すことになります。


しかし、その集団を構成する個人は、その集団の中で自分がその悪い事例になってしまう可能性を確率的に持っています。


この個人の視点と集団の視点の違いによって、現在日本において、ワクチンのみならず、放射線の健康被害等、さまざまな点で分断が起きているように思います。

ここでは、その問題について分析し、考察したいと思います。


3.1 個人と集団の視点の違い

放射線もワクチンも、健康への影響は確率で表現され、

集団の視点=政府の視点では、その確率に対して、放射線(原発や医療利用)やワクチンの利益が統計的に上回れば促進することになります。

一方、個人の視点では、確率がいくら少なくても、リスクがあれば、利益が明確で十分であると感じることができない場合、リスク回避に動きます。


これは非常に難しい問題です。

私たち人間も、前述の通り細胞の集団です。

生命として機能が維持されるためには、一部の細胞を切り捨てて、多数の細胞の存続を優先するでしょう。

例えばウイルスに感染した細胞が、自己免疫で殺されるのがその例です。


以前も書いたように、人と細胞、国と人の関係は似ています。(以前の記事

国全体として、ワクチンの副反応による死者よりも、コロナウイルスの感染拡大による死者増加の方が大きいとなれば、ごくたまにワクチン副反応による死者が出ていたとしても、ワクチンを促進することになります。

(※現時点(執筆時点。2023年時点ではワクチン接種と死亡が関係されると認定された事例もある)で、ワクチンが明確に死因と判定されたものはなく、多くが、判定不能、という状況です。

これこそ、ワクチンによって死者が増えたか、という仮説を、例年の年間死者数と比較して統計的に検証する必要があります。

しかし、統計的検証は、個々の事例を見るわけではないので、実際に個別の人がワクチンが原因で亡くなってしまったのかどうかは検証できません。)


放射線に関しても、国際機関が示す基準、被曝量の上限100ミリシーベルト/5年は、放射線利用の利益と、放射線による癌発生リスクの集団の観点での比較で決められています。

放射線は体内のDNA等を損傷させますが、損傷しても体内で修復されます。その修復が追いつかない場合に、癌に繋がることがあります。

その修復が追いつかないライン、というのは、損傷した部位によったり、個人によったり、確率的です。

統計的には、1000人に5人が100ミリシーベルトの被曝で癌で亡くなる可能性がある、とされています。

日本人の30%は癌で元々亡くなっているので、1000人に300人が癌になって亡くなるところ、100ミリシーベルトに被爆で305人になる、ということであり、

その程度であれば、放射線利用の利益が上回る、という集団視点での判断ですが、個人の視点で見れば、その増えた5人に当たる可能性もあります。

また、100ミリシーベルトで急に癌のリスクが上がるわけではなく、100ミリシーベルト以下でもDNAは損傷され、修復がたまたま追いつかない可能性もあります。

(それが非常に少ない確率になるように基準が設定されてはいます)

基準以下で放射線利用の利益の方が大きいラインでも、放射線被曝によって癌で亡くなることになってしまう人もいるかもしれないのです。


以上のように、集団的視点では、リスクの確率と利益を比較して判断がされますが、個人はリスクが少しでもあれば、そのリスク回避のための判断をしがちです。

ただし、ここでワクチンや放射線利用をやめろ、ということを言いたいわけではありませんし、個人と集団の隔たりの解消は無理だ、ということを言いたいわけではありません。


3.2 個人と集団の一致

集団としてだけでなく、個人としても利益が十分と感じれば、この分断は解消されます。例えば、車はその例です。

車による死亡事故は毎年起きています。しかし政府は車使用禁止にしませんし、国民も車の使用禁止を訴えません。

運転者の過失の場合は、放射線やワクチンの話とは別かもしれませんが、過失でない死亡事故もあると思います。


なので、まずは、ワクチンや放射線の個人視点での利益が共有され、それが集団視点と変わらず、リスクに対して十分大きければ、個人と集団の分断は起きないでしょう。

要するに、利益が元々、個人と集団で一致していれば、問題ありません。

しかし問題は、集団としての利益は大きく、ある程度のリスクは許容しよう、という状況に対し、

個人としてはリスクが未知数であったり許容できないほど大きく、利益が大きいと感じられない場合です。


この場合は、集団側=政府は、個人視点への理解を示し、しっかり協力をお願いすることが必要です。

そうすれば、個人も、集団視点での利益にも目を向ける人が少しは増え、個人と集団の立場の一致が進むでしょう。


集団が個人に寄り添うことで個人の行動を変えるには、個人がその集団のメンバーである、という自覚がなければ当然いけません。

しかし現在の日本では、集団の方針を決定する議員を決める選挙の投票率は50%を切っており、

自分たちが選んだわけではない政府の考える利益に個人が目を向けるのが難しくなっているのだと思います。


政府が本当に国民の利益を追い求める集団であれば、個人は、感染リスクを抑える、という個人の利益だけでなく、

集団内の感染拡大を抑え、経済活動を再開するという国民全体の利益に目を向け、協力する人が増えると思います。

しかし、政府が、国民全体の利益ではなく、自分たちの利益を求めてしまうと、個人は視点を合わせることは不可能で、分断が加速します。

良い国家の条件は、個人と集団の視点が一致していること、なのかもしれません。

政治の話になってきてしまったので、この話はここまで。


3.3 おまけ1 リスクに対する人間の行動・行動経済学

人間には、損失回避性というものがあり、同じ額の損失と利益があった場合、その損失がもたらす「不満足」は同じ額の利益がもたらす「満足」よりも大きく感じられる、ということが、

行動経済学の実験でわかっています

ある実験では、損失の方が絶対値が2~2.5倍大きく評価されている、ということが示されています。

要するに、コインの表が出たら1000円貰え、裏が出たら1000円支払うゲームには参加する人が少なく、

支払う金額が500円程度まで下がってようやく参加する人が多くなる、ということです。(表が出たら1000円Get、裏が出たら500円支払いのゲーム(1回のみ挑戦可)に参加するかどうか、考えてみてください。)


3.4 おまけ2 宝くじ

さて、宝くじを買ってる人は多くいます。

宝くじは確率的には期待値は購入金額以下であるため、合理的には買うべきではありません。

しかし、Loto6で言えば、1口200円に対して、最大6億円が当たる、という夢を追いかける人が多くいます。

このLotoと全く逆のお金の流れの宝くじがあった場合、皆さんはエントリーしますでしょうか。

要するに、ひとり1口限定 エントリーすれば200円がもらえるが、1等(600万分の1の確率)で6億円支払う必要がある宝くじです。


損失回避性において、期待値を冷静に計算して考えることができるのか、わかりませんが、金額のインパクトだけでしたら、たった200円のためにこのリスクは取れないでしょう。


実際、支払う金額の期待値は、1等だけを考えると600万分の1の確率なので100円です。

なので、合理的には、100円以上ならプラスになるのでエントリーの判断になります。

皆さんなら、いくら貰えるならこの宝くじにエントリーしますか?

合理的に101円でもエントリーしますか?

1000円ならどうでしょう。

1万円なら?


なかなか、合理的なラインの101円ではエントリーしにくいのではないでしょうか・・・。

ワクチンや放射線に当てはめてみますと。

癌や副反応で「死ぬ」可能性がある、というのは、「6億円」というインパクト以上のインパクトがあります。

そのため、合理的な判断は難しく、リスクの確率を無視して行動選択をする人が増えてしまうのかもしれませんね。。。


おしまい。


閲覧数:201回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Commentaires


bottom of page